長坂養鰻場「三河青のうなぎ」
今年のヒロコシのうなぎ弁当は、日本一の生産量を誇るうなぎの産地、愛知県一色町の長坂養鰻場で、買い付けた鰻を使用しております。
長坂養鰻場のうなぎは、品質管理が行き届いており、ジューシーで皮もやわらかい、とっても美味しいうなぎです。
長坂養鰻場のこだわり
長坂養鰻場は、ご子息と一緒に、やわらかく旨みのあるうなぎを育成する為、限りなく天然に近い環境をと、矢作川の清流水を水源に、コンクリートで囲わない池づくりからはじめる気の長い作業をされています。
うなぎ作りは、土作り
「うなぎ作りは、土作り。池の土作りとは、畑の土作りと一緒で、池の土のメンテナンスを毎年行わなければ、良いうなぎは育ちません。企業秘密で、土の産地は公表できませんが、ミネラル分の多いこだわった土を取り寄せ、使用しています。」
と、長坂社長に話していただきました。
ご子息 |
うなぎにエサを |
池づくり |
一色ウナギのルーツ
明治12年に養魚池を築造
日本の養鰻業は、明治12年に服部倉次郎さんが、東京深川の干田新田に200ヘクタールの養魚池を築造したのが、最初と言われています。また、同氏は明治30年ごろに、静岡県の浜名湖畔に大規模な養魚池を設け、蚕の蛹をウナギの飼料とする養鰻業の発展の基礎を築きました。
本町の養鰻業は明治27年、愛知県水産試験場が坂田新田に設置されたのが始まりで、同31年、鯉の養殖池にウナギを混養しました。しかし、池の構造が不良だったため、大雨が降ると、大量に逃げたり、越冬できず死んだりと苦労もあったようです。
養殖試験で一応の成果をみた県水産試験場は、明治35年に愛知県呼続町(現:名古屋市南区)に移転し、養殖池を民間に払い下げたことで、本町の養鰻業の第一歩がスタートしました。
一色町の養鰻業の先駆者
養鰻業を企業として位置付けたのは、衣崎村(現:一色町大字千間)の徳倉六兵衛さんと徳倉広吉さん。二人は明治37年、生田の竹生新田に12ヘクタールの養殖池を創設し、現在の養鰻業発展の礎(いしずえ)を築いたのです。当時、県下では養蚕業が盛んで、ウナギの飼料である蚕の蛹が、充分確保されていたことも、業界発展に寄与した要因だったのです。
その後、養鰻業は大正、昭和の時代を通じて、一色町や豊橋市周辺で、ますます発展しました。その背景には、大正9年に国淡水養殖研究所が、愛知県に設立され、試験研究の結果、ウナギの養殖は極めて有利な事業であることが確認され、県が普及奨励したことがあります。